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>>Think スポンサーサイト [B?]

  • 2007-04-01 - -

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>>Think 移転 [B?]

 こちらに移転します。

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>>Think No.46 メディアを上手に使えない人々 [B?]

 確かにそうなのだけれど人々がそこまで有能にメディアを利用できるのならば捏造問題でスーパーの納豆がいきなり売れ行きが止まったり、飛ぶように売れる反応があったりそもそもしない訳だ。松永さんは思考停止と脊髄反射に対して批判しているけれども、実際はどうだろうか? ネットの人間ですら脊髄反射し情報を鵜呑みにする連中でいっぱいである。また、新聞で報じられた反応がよくわからないと仰るけれども読者である脊髄反射し情報を鵜呑みにする連中が怒る材料なんて何でも良いのである。
 勿論、メディアをちゃんと利用して情報を巧みに選別できれば今回ほど問題にならなかったのでは? と私は感じる。TVでは**と言っていたけれども他所の人は**と言っていたと総合的に整理できれば納豆がダイエットに良いか悪いかは分かったはず。けれども実際はそうではなくて製作者は鵜呑みにするような視聴者を前提に**すれば数字が取れると考えて捏造をし、新聞では脊髄反射し情報を鵜呑みにした輩の適当な怒りの材料を並べて売っぱらっているに過ぎない。そもそも読者も視聴者も松永さんが仰るようにそんなに賢くないのである。
 では知恵を身につける必要があるのかというと私はNOと回答する。基本的にTVをあまり見なくなった私だけれども単純労働に従事する大多数の人間には思考力は必要最低限あれば良い。必要なものは健康な肉体であり毎日定まった時間に仕事が出来るという信用である。そして本当に必要な情報は肉親や親族などから得れば良いし、教育機関でもある程度身につけられる。その程度で良くて、新聞なんかそんな程度なのだと思う。これからもメディアをきちんと使えない人々はいるだろう。でも、それでも彼らが不幸かと言えばそうではない。不祥事の報道が何故されているのかと考えれば大阪の制作会社には制裁が下されたけれど私には人々が日常の下世話な話を求めているようにしか思えないのである。それで満足しているならそれで良いではないかと感じる。
 勿論松永さんの意見は大変貴重である。間違いは間違いと指摘した貴重な文章である。だが、私は普段の現実での生活を感じていると「情報を収集して自らが選別する能力」というのは編集者くらいにしか求められていないのではなかろうか。だからこそメディアがあるのではないのか。マスゴミと書く輩もいるけれど、マスコミがなければ自分で満足に情報を選別できない人がいるのだろう(それすらも満足に読めない人がいるのだろう)。ただそれだけの話ではないか。

 話は関係ないけれど私は「頭でっかち」と呼ばれる。頭は良いけれど、それで飯は食えないと揶揄された言葉である。祖父から毎日のように「霞を食うて生きていくんではないんだ。自分の考えを纏める前に飯を食う方法を探せ」と説く。勿論「勉強しろ。ホリエモンは〜〜で、石原都知事は幼い頃から〜〜で辞書一個暗記して〜〜で」とかもよく聞く。しかし総括すれば「知識や論理力を身につける前に、情報を上手に選別する前に、三食飯が食えるように働けるようになれ。土方でも何でも良いから働けて食えるようになれ」であった。「情報を選別する能力があっても飯が食えなければこじきになる」とも言われた。ふむふむと私は半分聞き流していたけれどもやっぱり知識だの考えだのは生きていく上で必要ないのかもしれないと私は思う。
 それで結果として大学に行く学力だの情報を選別する能力だのやれ自分を表現する為の論理力だの必要ないのだなと諭された。単純労働での条件化ではむしろ脊髄反射や思考停止が要求される。逆なのである。その中でそのまんま下世話な話をした結果がこれなのだろうと私は感じる。いや、感じているだけなのかもしれないけれど。

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>>Think No.44 悪事を「一部」と「全部」にしたがる人間の特徴 [B?]

 しかし、2ちゃんねるで起こった出来事を、善意の出来事と「一部の人」の悪事というふうに切り分けて考えているのは、2ちゃんねらー自身なのである。
 これは私のはてなの方でかなり以前にやりとりがあったことなのだが、たとえば殺人予告は「2ちゃんねる利用者の一部の人がやったことで、普通の2ちゃんねらーには関係がない」と主張する。なるほど。じゃあそういうことにしてもいい。ただし、その論理は常に一貫して主張されるべきだ。折り鶴やゴミ拾いといった「善行」についても、「2ちゃんねる利用者の一部の人がやったことで、普通の2ちゃんねらーには関係がない」と主張すべきではないか。

 以前から松永さんは対称性を掲げていらっしゃるが私はそう思わない。非対称性は人間が生み出しているものに他ならない。紛糾するのは構わないけれどこの言動は通じまいと解釈する。
 人間はどうしたって「善行」を全員がやっているように掲げて「悪行」を一部のものにしたがるものである。また同じ人間が組織の外から見れば「悪行」を全体の印象と捉え、「善行」をないがしろにしやすいと言う特徴がある。この異なる非対称性でバランスが取れていることを注意しなければならない。勿論どちらも「一部」の人間が行っている。しかし2ちゃんねらーは外からの「一部の善行」と「全体の悪行」という印象に反発して間逆のことを行っているに過ぎない。この点をもう少し考えないと、と私は考える。要するに「みんなが『一部の人間が〜』」と解釈できるようにとね。しかしこの啓蒙は永劫に続くだろう。どうしたって内部の人間は「善行」を前面に押し出したいし、外部の人間は「悪行」を押し出して説明するからである。俗に言う偏見である。これを取り除くのは困難だろう。何も2chに限った話ではない。

 私も2chではないけれど創価学会という組織に所属しているのでこの非対称性を用いなければならない場面が時折やってくる。私はなるだけ善意も悪意も一部と考えて教えているのだけれど一般の反応はどうだろうかね。「全体の悪い(良い)印象」と抱く方もいれば、そうでない方(一部だけ多様な人間が混在している印象を抱く方)もいるのだろうかねと思う。多分前者が多いのではないかと邪推もする。それは2chもそうだし、草の根コミュニティだってそうだ。「2ちゃんねらだから〜」とは思わないんだな。この辺りはオウムだってそうだし、弱小宗教だってそうだし、マスコミだってそうだし、会社だってそうだ。都合の良いことはどんどん宣伝して都合の悪いものは隠蔽したがるもんでしょ。そしていざ他人の事となればどんどん叩き上げにして自分の都合の良いように論法を展開して(以下省略)。

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>>Think No.43 「自力」の難しさ [B?]

 最近は誰かのネタに頼ってブログが運営されているけれども、これって「他力」だなと思う。自分が最初の立案者になる「自力」の記事と言うのは労力も大きい分反響も確かに大きいのだけれど中々書くことが出来ない。最近の「他力」本願なブログ運営には少々見直さなくてはなと思う。
 もっとも私のブログ運営方法は所謂「ブログ論」などのメタファーな事をああでもないこおでもないとこねくり回す思索系のブログだから中々「自力」な記事が書くことが出来ないのやも知れない。ブログ論壇を見れば他人の記事にレスをする「他力」型のブログが多い。多分その理由もきっと自分で最初に考えて記事を練るのが難しいからだろうとも予測する。
 これは掲示板のスレッド製作とも同じかもしれない。私は基本的にレスする側であって消費的な立場にある。本来ならば生産的な「自力」型にならなければならないのだがやはり難しい。大多数がレスをする消費型では立ち行きならなくなるのだろうけれど、どうしたら自分が最初のスターターに立てるのだろうかなと悩むばかりである。
 ゴシップ記事もそうだ。書くのは大変だが反響は簡単である。

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>>Think No.42 多数派主義の変な世界 [B?]

 あまりにも長大な文章なので引用は割愛する。私は[雑記]「そんな言い方誰もしない」と言い張るお子様たちという話は多数派主義の変な世界を指摘しているのであって、「そんな言い方誰もしない」と事実を言ったまでなのに怒られる小学生可哀想と言うのは多数派主義の変な世界に則った主張だと思う。ポイントは「そんな言い方誰もしない」である。
 赤信号みんなで渡れば怖くないではないのだからそもそも「そんな言い方誰もしない」というように「誰か」に依存するのはおかしいなと私は感じる。「誰か」に依存しない「私は言わない」ならば納得する。それは個人の問題だ。けれども自分の主張を数の力で補填しようとするのは多数派主義の変な世界だなと感じる。マジョリティがそんなにも大事で、マイノリティの主張なんか糞食らえと言っているように感じる。
 私も時折多数派主義の変な世界な理屈補填を行う。しかしながら本来は「誰もやってない」というのが事実であっても、それは理屈の武器にしてはならない。勿論、数の力が影響力を失って慣用句を誰も使わなかったら、慣用句の力は失われて死語になってしまうとも思う。しかし、問題とするべきところはそうではないのだ。「知識として身に着けなさい」と言われた時に「そんな言い方誰もしない」と反論するのはおかしなことである。何故ならば「そんな言い方誰もしない」という反論は「この慣用句は事実存在する」という指摘にきちんと対応していないからである。「そんな言い方誰もしない」という理屈に共感したとしても間違いは間違いなのだ。故にここは素直に「自分が知りませんでした」と言うべきではなかろうか。何故そこに他人を引き合いに出すのか私も共感はしたけれどあんまりだなと感じる。「みんなが言うから正しいのか?」と訊ねたい。そうではない。「『みんな』と同じ自分が正しい」という主張は時に誤りかもしれない。だから使ってはならないのだ。

補記:試験のための勉強

 納得ならない方は上記記事のコメント欄を注目。「事実の指摘」にいちゃもんつけたくても、事実は事実。二歩は駄目と将棋のルールにあったとして、「何故?」と問うても永劫問答に踏み出す。または「そんなルールみんな知らない」と言っても永劫問答に突入する。その防止策として事実は事実と受け取るべき。学習塾講師が「腹を割って」という言葉を教えた時に、「みんな使わないじゃないか」と反論しても永劫問答に突入する。「事実」はあくまで「事実」と捉えるべきと言うのが私の主張。だのに「周りは使っていないじゃないか」といって永劫問答に自ら突っ走るのは私は愚かだなと思う。だから「みんな」論法を私は禁じた訳(suVeneさんにはやや言葉足らずたったかもしれませんが)。
 私も事実定義の前に「みんな」論法を時たま使う。共感はある。「みんな」が使わなければ効力を成さないのではないか? という疑問は確かにある。だけれど将棋のルールを「みんな」知らなかったとしても存在するものは存在するのだ。事実の前に事実以外の反論は難しいと思う。

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>>Think No.41 2chがなくなるのはありえない [B?]

 リンク先の記事は類似記事であって私は少々別の話を記す。
 多分私の思い込みに過ぎないのだけれど2chが消失することはまずありえないと思う。正確に書けば、責任を取らない匿名は日本のネット上からは消え失せないという意味でである。7年以上をかけて生まれた責任を取らない匿名によって一つのサービスが崩壊する可能性があったとしても、匿名たちは責任を取らずとも自らが危険ではないという安心感から次のサービスに移行するだろうと私は考える。
 故に、サービスを匿名という存在が食い潰したとしても大元である匿名には何一つダメージを負わないのである。私はひろゆきが賠償命令を命じられて踏み倒した結果2chが万が一なくなるかなとは思う(万が一、無責任な匿名によってひろゆきが食い潰されてしまうのかもしれないと危惧はしている)。しかしながら、その利用者たちは何も困らずに次なる類似掲示板で同じようにサービスを食い潰していくだろう。2chがなくなっても責任を負わない匿名が存在し続ければ現在のネットは何一つ変わらない。誹謗中傷や名誉毀損などの書き込みだってなくならないだろう。その書き込みの結果サービスがなくなるのであれば、一番ダメージを受けるのは2chを有益に利用してきた人たちであるだろう。けれども、まあそれも仕方ないよねと思う。あれほどの巨大な存在が消えて困る人なんてまったくいなかった――というのはまずないのだから。
 この辺りは「いじめによる自殺」と似ているのかもしれないと私は思う。いじめによって自殺した人間と親しかった人は悲しむだろう。けれども、無関心だった人――ひいては責任追及されないことを良いことにほいほい誰かを傷つけた人は何一つダメージを負わない。ただサービスが消えた時と同じように「あーあー**さん死んじゃった」くらいにしか思わないだろうと私は決め込んでいる。
 故に少なくとも2chに訴訟を起こそうとした人たちが成せたのはこのような歪みのあるネットへの疑問だけだったのかもしれないと憶測する。けれどもこの歪みを正すには容易ではない。このネットの体質を生み出したのは同じ人間であって同じ日本人である。私は日本人の体質の一つに2chがあって奇異なき匿名を使う体質もその中に内包されていたのだと憶測する。全ては私の憶測に過ぎないけれどももしかすれば一部分は的を射ているだろう。小さな草の根掲示板でも草の根利用者を叩き上げにする為に匿名はしばしば現れていた。それが2chという大きな場所で同様の匿名が出現していた。ただそれだけの話である。

 無縁であるが私はこのように誹謗中傷だけを目的とした匿名を昔「荒らし」と述べ、果敢に消失するように草の根掲示板に提言した時期もあった。けれども、ネットに慣れ長けた今は2chやmixiや草の根掲示板に関わらず(安易に)誹謗中傷を繰り返す輩は消えないだろうと肌で感じ理解できる(会社が運営しているサービスならばそのような輩は削除対象になることはあるだろうが、それはあくまで場を維持する為であり、いたちごっこである)。多分にこれは人間の本質の一部だろう。だから難しいのだろう。私はこう考える。これを読む人間は一体どのように感じるのだろうか?

 もう少し追記する。個々の書き込みに憤激して「無責任だ!」と批判し訴訟を起こす運動は間違っていない。しかしながら2chは規模が大きすぎる掲示板であるが故に誹謗中傷や名誉毀損の書き込みも莫大となる。私は削除対応が正確に行われたとしても、それは大半のサイトのように書き込んだユーザーの問題であってひろゆきさんの問題ではない(放置した結果責任追及できる人間がひろゆきさんしかいないので矛先がひろゆきさんに向けられているだけであるが)。故に訴訟を起こす相手が違うのだと見える。ところが2chの体制がどうあれ莫大な量を潰していくのはいたちごっこであり雑草の芽を摘む作業となる。松永さんは否定して欠陥と呼んだけれども私は合理性と見なす。何故ならば書き込みは消しても消しても生まれるもので削除人がどれほど頑張っても基本的には徒労で終わるから放置されているのだと見なしている。正直、個々のサイトや公的機関や中小規模の企業などに悪影響を及ぼしたとしても、その莫大な書き込みを削除するのは困難だと見なす。
 ひろゆきさんが何故書き込みを放置する方針にして書き込む側を手厚く保護しているのかというと草の芽潰しの削除を軽減させる為だと考える。もし非公開な削除依頼に修正したとしても莫大な量を削除しきれる訳がないので削除を望む書き込みが常に削除されるとは限らないであろう。提言された問題にはネットの歪みへの提言がなされているけれども根幹を潰さねば基本的に場所なんてどこでも発生するものなのだ。さて、その根幹は潰せるものなのか。いいや潰せまい。私はこのようにも考える。勿論、ユーザーを売り払うのも手段の一つなのだけれど、それって事件性のある人間でないと無理でしょうとも考える。人数が莫大になるからである。さてさてそんな面倒ができるのかというと当然ながらできないので現状放置となっていく。

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>>Think No.40 引越しの為に更新停止します [B?]

 タイトルの通りです。多分二月中ごろには再開するはず。それまで各記事の反応に対しては読むのみに徹します。尚、言及されている場合言及し返す可能性があるので対話がしたい方はトラックバックでもコメントでも提出ください。匿名でも内容は読めるものは全て読んでいます。
 尚、リンク添付――あるいはほのめかしでのコメントは全て言及と見なして逐一レスします。ウォッチャーの方はご注意ください。私の知りえる範囲のコメントで返せるものは返すというのがこのサイト・ブログの方針です。ご理解ください。

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>>Think No.39 「普通主義」のおかしさ [B?]

ますますヒートアップですよ。自ら書いている矛盾の渦に巻き込まれてるけど、とにかく何か言い返さないと気が済まないようだ。
そんなに反応がほしくない、またはコメントを書く人を選ばなければならないと豪語するなら掲示板云々を早々に取り払えばいいのに。いちいち何かと条件や、コメントを書きたい人に共感して、とかいわなくてもばっさりきりゃいいじゃん。
名前を出しているから痛くない、個人サイトを出しているから痛くない「わけではない」、ということが理解できていない。誰かと比べて痛い、痛くないという比較がおかしいというあなたがラストでプギャーなこと書いてるから余計に説得力がないんだな。
結局、知識だけの頭でっかちなことが証明されました。ありがとうございます。あなたが知っている賢い知識と自分の書いた内容がいかに合致しないかよくよくお読みくださいね。

 即ち「痛くない人=普通の人」になれということですね。何だろうかなこれと思う。例えばネットで愚痴をはいている人間がいるとして、そいつが「不快」だから「痛い」と見なすのは私はおかしな理由だなと思う。私は「普通主義」という「当り前の人(痛くない人)でありなさい」という押し付けがましい主義は誤っているなと感じる。自分が理解できない人。自分が不愉快だと感じる人。そういう人間を「痛い」と認定するのは変なことだなと思う。「普通」ではない人を尋常ならざる「不快」から「痛い人認定」をして良いとは考えない。それは私の中で誤りである。過ちを指摘して正そうとするならばともかくとすれど。
 例えば小売店舗で働けば不自然なお客さんは五万といる。どうなのかなとも思う。だけれども私はそのような方に「痛い」とあまり感じないようにして「それが一般人」なのだと許容範囲を広くしている。「痛い人」ではなく「短気な性格な方」だとか「クレーマー精神に溢れた方」だとか感じることはある程度に留める。ネットでも基本的に同じなのだ。
 過去私はデンマンことバークレーさんという方に対して猛烈に怒ったことはあったけれど、よくよく考えればそういう人間は現実にいてもおかしくはない。かのTinycafeさんだって無断リンクに尋常ならざる怒りの持ち主だったけれども世の中広い訳でそういう人間がいたっておかしくはない。だから私は過度に「痛い」認定をするのは極力避けるようにしている。デンマンさんこと barclay さんについてという記事に納得できたのはつい最近のこと。また斜に構えて物事を判断すれば見るべきものもすら失う可能性を秘めている為に、私は異文化の存在を率直に「痛い」だの「不快」だの「電波」だのとは書かない。相変わらず「ちゃんころが何言ってんだ」と思うことはあれど匿名からの文章もきちんと読んでいる。私が指摘しているのは価値観の「相違」であって納得ならないようならお帰りくださいということ一点。別段この世は一個の価値観に染まる必要はないし「普通の人間」である必要もないと感じる。【痛いブログ】みんなで鑑賞するスレを開いて私が疑問に感じるのは殆どが私の許容範囲内に納まる人間であって夢中になるほど「不快」を感じることはなかった。基準値が違うから「おかしい」というのはおかしい。別にブログに愚痴を書いたっていいじゃないかと思う。はたまた「ブログに愚痴を書いて『誘い受け』と書かれる事を嫌われるならばmixiだのパスワードだの導入しなさい」ということなのかと疑問になる。基本的に愚痴すらも日記の一部と見なす私は公開されたブログで愚痴を書いたっていいじゃないかと思うのだけれどなあと首を傾げてしまう。ネガティブコメント(あるいは普通のコメントすらも)を貰いたくないだけなら正解だろうが、コメント場を開放しているのは結局私が公開している以上反応があるのは仕方なしということなのだという諦めに過ぎない(だからこれ以上言い合っていても不毛なのだけれども)。

 尚掲示板の類については破棄する方針はあまりない。コメント場がメールとはてなブックマークなどの類だけでは読者は困るだろうと憶測した為。私はコメント欄を封鎖した代償に代替物としてBBSとWeb拍手を選択しただけ。コメントは欲しくないけれどコメントしたいユーザーに共感したっておかしくない。私は過去再三コメント場を開くように推奨する記事を沢山眺めた結果「コメント場を開いた方が便利ならば開こうかな」程度にしか考えていない(同意コメントや反発コメントを狙ってではなく読者が勝手に書いていくんだろうな位の思惑しかない)。管理が面倒だから再び閉じようかなとは思うものの批判できる人間がメールアカウント保持者やブログ保持者やはてブなどのブックマークサービス保持者だけでは流石にナンセンスである。これは矛盾ではない。

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>>Think No.38 自分の「常識」が大事な人々 [B?]

 十八番ともいえる私の得意言葉。常識を鵜呑みにすることなかれ。自分が非常識と感ずるものこそが常識であるかもしれない――というもの。ところが大半の人は情けなくも自分の常識に振り回されている。自分の知っている範囲の物事で比較対照し、ある者を痛いと呼び、ある者を絶賛する。評価するのは構わないが私が感じる疑問はその根拠である。人は自分の知る範囲でしか物事を考えられない哀れな人間である。最近のウォッチャー(ネットイナゴ)は特に常識にとらわれて必死になって非常識を貶す。どうして常識が大事なのか。どうして誰かを貶めて笑う事を楽しみにしなければならないのか。私には疑問だ。それだけ自分の中身は空っぽなのだろうか?
 奇異なき匿名の中でも自分の事柄を棚に上げて他人を執拗に叩く匿名はさぞや嫌われるねと私は感じる。誰かを貶めるのならリスクを払って出てくればいいのにとも思うのだが多分無駄だろう。リスクなしで一方的に書き込む彼らに多少の共感はあれど、最近の魔女狩りのような執拗な「痛い」という姿は哀れだなと思う。私の格言とも言える「常識を信じることなかれ」というのは「他人に抱いた不快が何なのか探れ」という意図があるのだが、大半の人は探らずに「不快は不快。痛いものは痛い」としか認知しない。幾ら大衆が単純労働ばかりで考える事を必要としないとしても少しは思考したら如何なものかと感じる。
 またネットワーカーの増加によってかつて「痛い」と認知できたものが数の力で認知できないことにも着眼すべき。携帯サイトをただ痛いというだけならばほとんどのサイトが「痛いサイト」になってしまう。私に対してもそれは同じである。例えば騒音おばさんみたいな周囲に何らかの害悪を与える存在にだけ「痛い」と書けばいいのにと思う。実害のないサイトを乱獲するように「痛い」と記すのはあまり生産的ではない。これは2chにも言えるし最近のはてブにも言える。ウォッチするのが楽しみな方は画面の向こうの人間を怒らせるのが楽しいのだろうかと時折邪推してしまうほどだ。

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>>Think No.37 面倒なネット事情あれこれ [B?]

 最近は2chコメンテーターに言及されていたこともあって日記で書いていた。

338 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2007/01/12(金) 00:17:41 ID:wv5S5/Lc
ttp://btxt.blog.shinobi.jp/#Log29
愚痴というか、誘い受けというか、作家気取りな記事がヲチ向き。
回りくどくて読む気が失せて、逆に沸々と苛立ちが出てくる文章書きってなんなんだろうね?
341 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2007/01/12(金) 06:16:23 ID:NBI0dSE0
>>338
うへぁ。かん違いだな。自分をプロ作家と思っている思考回路だろうな。自己を卑下しつつ、それは実は批判が来ないようにする隠れ蓑にしかみえん。
一度文芸板にでも自分の作品を晒してみたらいいのに。

 かくて次の日記を書く事になる。

 中々理解されないようだが私は自サイト・ブログに対しては非コミュニケーション主義者である。誘い受けのようにコメントを求めて書く姿勢はないし、かといってコメント場を用意する気にもトラックバックを送る気にもならない人間である。再三指摘されてきた「トラックバックを何故送らないのか?」だとか「コメント場が何故ないのか?」については一言で書くならば私が面倒だったからに他ならない。私が読者の事を放棄し書き手である私の瑣末な面倒を重要視していただけの話である。
 ところが一度トラックバックを送る側になったりコメントする側になったりすると今度は閉じた管理者に苛立つようになった。何故コメント場を開放しないのか。何故トラックバックを受け取らないのか。メールという手段を放棄して私は時折苛立ちを感じた。そうして、ああ、皆私にそう感じていたのかと納得した。
 今日、私のブログでは四つの連絡経路がある。一つはメール。次にトラックバック。サイト全域も含めればweb拍手とBBSまで装備した。正直これが限界である。コメントは欲しくないけれどコメントしたい人間に共感した私が実行に移したのが現在の形である。だけれども私は何度も書く。コメントが欲しくて、はてブされたくて、今日私が文章を書いているのではない。Webにぽんと情報を置いて書いているのだというのが中々分かってもらえない。この辺りは非言及主義な日和見日記を基軸にしているサイトと同じ方針だろうと私は感じている。別に共感が欲しくて一喜一憂しているのではないのだ。ところがこの心情や事情は中々伝わりにくい。ただの書きなぐり文章だけに苛立って私の方針が伝わらないのが腹立たしい。

 また多かれ少なかれ私が「リンク許可制」の人間に通じるところがあるのはWebにぽんと情報を置いて、それ単一だけ覗かれる為に書いているのではないという心情一点である。私は「リンク自由主義者」であるが仮に一歩間違えれば「自由なリンクを認めない」という「リンク許可制」の人間になったかもしれないと思う。Webにぽんと情報を置きたいけれどネガティブコメントを受け取る嫌悪感や作者の方針を読者が理解しないなどの苛立ちが募った結果本来のWebからは時に遠ざかる形のWebが歓迎されるのだと思う。しばしば私はmixiなどのコミュニティに名を変えて赴く事を考える。正直好んでいる読者だけの運営って楽だよねと思う。とはいえ、開かれたWebはそうではない。

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